茶の本

活字嫌いではあるが、最近妙に読書欲があり、芋づる式に読んでいる(笑)。

芋づる式とは、何かの本を読んでいて紹介されていたり、引用されていたりすると、その中身が気になって気になってしょうがなく、ついつい購入してしまい、幾何級数的に読書量が増えていることを指す。

で、なぜか岡倉天心の「茶の本」に辿り着いた。

これは、ビギナーズ日本の思想とあるように、ちゃんと解説もついていて分かりやすかった。

以下、特に印象に残った部分を引用する。

茶道は、雑然とした日々の暮らしの中に身を置きながら、そこに美を見出し、敬い尊ぶ儀式である。
そこから人は、純粋と調和、たがいに相手を思いやる慈悲心の深さ、社会秩序への畏敬の念といったものを教えられる。
茶道の本質は、不完全ということの崇拝-物事には完全などということはないということを畏敬の念をもって受け入れ、処することにある。
不可能を宿命とする人生のただ中にあって、それでもなにかしら可能なものをなし遂げようとする心やさしい試みが茶道なのである。

道(タオ)とは、通路というよりむしろ移り変わることである。
それは万物変転の摂理-絶えず自分に立ち戻っては新しい姿を生み出していく永遠の成長である。

道教における絶対は相対にほかならない。
道教はこの世をありのままに受け入れるのであり、儒教や仏教と違って、なげかわしいこの世の暮らしのうちにも美を見出そうとするのだ。

老子によれば、真に本質的なものは虚のうちにしかないというのである。
虚はすべてを容れるが故に万能であり、虚においてのみ運動が可能になる。
自分をからっぽにして自由に他人が出入りできるようにすることをこころえた者は、どんな状況でも自由にコントロールすることができるようになるだろう。

禅という名はサンスクリット語の「禅那(Dhyana)」に由来し、瞑想を意味する。
そのめざすところは、霊的な瞑想を通じて究極の自己実現を達成することである。

茶道の理念はことごとく、暮らしの細々とした事柄のうちに偉大さを見出すという禅の考え方に由来する。
道教によって美学的理念の基礎が築かれ、禅によってそれが具体化されたのである。

永遠とは、物質ではなく、精神にしか見出すことのできないものであって、こうした簡素な建物(茶室)はその精神のあらわれなのであり、そうであればこそ、洗練をきわめたほのかな輝きを帯びて、かくも美しいのだ。

真の美というものは、不完全なものを前にして、それを心の中で完全なものに仕上げようとする精神の動きにこそ見出されるというのである。
対称性とは完全ばかりか、くりかえしのあらわれであり、こうした均質的なデザインは、生き生きとしと想像力を働かせるには致命的であるとみなされるようになった。
茶室では、くりかえしを避けるということが常に心がけられている。
室内を装飾するために選び出されるさまざまな美術品は、色や模様が重複しないようにされる。

自己主張ばかりを押し付けても相手に受け入れられることはない、自分を空っぽにすることによって、そこに相手を呼び込み、相手の思うままにふるまわせることによって、自他一体の境地に達し、目的を果たす。

へぇ~と妙に感心させられたり。
僕を良く知る人から言わせれば、「お前、一体どうしたん!?」と突っ込まれそうである。

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